土
27
3月
2010
アレキサンダー(2004)
痒いとこに手が届いた立花 隆さんの映画コラム。
もう一度勉強してみてみようと思う。
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オリバー・ストーンの新作「アレキサンダー」を見て、いろいろ思いを深くするところがあったので、それについて書いてみたい。
この映画、アメリカではあまり当たっていない。製作費を200億円かけた大作と いうのに、公開八週目の全米興行収入約35億円(05年1月16日時点)というから、かなり苦戦しているところだ。それに対して、ヨーロッパでは大いに当たっている。ギリシアはもちろんフランス、ロシア、北欧から中欧、東欧にかけてヨーロッパの主要国では圧倒的一位だ。そもそもアレキサンダーはアメリカ人よりヨーロッパ人にとってずっと近しい存在だということだろう。
この映画、そもそもハリウッドのメジャー製作会社の作品ではない。インター・メディアというもともとドイツ系の映画投資ファンド会社の手になるもので、プロデューサーには、米英独伊のプロデューサーが名をつらね、アメリカと欧州各国の投資マネーを引きよせて作られた。
アメリカで、「アレキサンダー」が、なぜそんなに当たらなかったのだろうと思 って、インターネットで映画評を拾ってみると、なるほど褒めているものより、酷評しているものが多い。どこが酷評されているのかというと、論点はいろいろあるものの、アメリカで目立つのは、アレキサンダーの性的側面の描き方に対する不満である。はっきりいうと、映画の中で、アレキサンダーは同性愛傾向を持った人間として描かれているが、それが不満なのだ。それに、アレキサンダーが女々しい、暗い、泣き虫すぎるなどといった、性格描写に対する不満が多い。映画の中のアレキサンダーは、アメリカ人好みの、ひたすら雄々しく、明るく、カッコよい、アメリカン・タイプのヒーローではない。悩み苦しむことが多い、ハムレット・タイプの主人公だ。
同性愛傾向についていうと、事実問題として、アレキサンダーには同性愛的傾向 があった。しかし、基本的にはヘテロ(異性愛者)である。アレキサンダーは、映画に描かれていないケースも含めて同時に三人の女性と結婚し(そういうことが可能だった)、一人とは子供を作ったし、それとは別に、若いときから婚外関係を持っていたかなり年上の女性とも別の子供を作っている。
アレキサンダーがホモだったかヘテロだったかというと、バイセクシャルというのがいちばん正しいだろうが、映画の中では、アレキサンダーの子供のときからの親 友、ヘファイスティオンとの関係が、相当のベタつき具合で描かれている。二人が目に涙を浮かべながら見つめ合い、語り合い、抱擁しあうなど、ちょっとへきえきさられる場面がたしかにあるから、近年急激に同性愛にきびしくなってきたアメリカの 空気を考えると(同性婚を争点のひとつとした大統領選以後特にきびしい)、この映画に風あたりが強かったのもわかるような気がする。
http://moura.jp/scoop-e/mgendai/200503/image/hyo1.gif
国家を築く「男同士の愛」
しかし、周囲をへきえきさせるほどのアレキサンダーとヘファイスティオンとの関係はほとんど史実なのである。二人はいかなる男と女よりも深く結ばれあっていたといわれ、歴史書にははっきり「愛人」と記しているものもある。そして、ヘファイスティオンが死んだときのアレキサンダーの身も世もあらぬ嘆きぶりがあれこれ書き残されている。
それによると、アレキサンダーは、ヘファイスティオンの死後三日間というもの、誰とも会おうとせず、食べることも飲むことも一切拒否して自室にこもり、夜となく昼となく遺体にとりすがって泣き悲しんだ。そして、喪が明けると、途方もなく大きな霊廟を作ろうとした。計画では、180メートル四方のところに高さ60メートルの六層の塔を建て、下のほうには金の花束をまきつけた高さ6メートルの松明たいまつをズラリとならべ、各層に金の雄牛像、金のライオン像、ケンタウロスの戦闘場面を描いた金のレリーフなどなどを並べるというものだったが、完成しないうちにアレキサンダーが死んで、計画中止になった。
古代ギリシアにおいては、たいていの男性がその生涯に一度か二度は他の男性との間に同性愛的な関係を持つことが、ごく普通のこととして、社会的に認容されていた。プラトンの対話篇『饗宴』は「恋について」という副題を持つ愛と恋についての考察の書として有名だが、実はそこで語られていることの大半は、男と女の間の愛についてではなく、男と男の間の愛についての記述なのである。
プラトンにいわせれば、男と女の間の恋愛は、「つまらぬ連中のする、低俗な恋」である。なぜ低俗かというと、その連中が恋しているものは、相手の魂ではなく、相手の肉体だからだ。相手の肉体さえ手にいれれば、思いがかない、愛はしぼんでしまう。しかし、本当の恋は、相手の魂に対する恋であって、それは相手の肉体を手に入れただけでは決して満たされない。二人の間が魂と魂が恋しあう関係にまで高められて、はじめて本物の愛となる(プラトニック・ラブの本当の意味はこういうことだ)。そういう純粋に精神的な関係は、男と女の間には成立せず、むしろ、男と男の間に成立するという。
少年時代のアレキサンダーの家庭教師だったアリストテレスが、映画の中で、これとそっくりのことを教える場面がある。「男同士の愛は汚れていると思いますか?」と問われて、「情欲のために寝るのは激情に屈すること。お互いを高めあうものではない」といい、「だが男同士の間に知識や徳の交歓があれば、その関係は純粋で素晴らしい」と答えている。さらに、「その男たちの愛は都市国家を築き、ギリシアの民を昇華させる」といい、そういう男同士の愛が、社会、国家の基盤を作ったのだとまでいっている。映画の中のアレキサンダーとヘファイスティオンの関係もよく見れば、このようなものとして描かれ、肉体的同性愛としては描かれていない。
この映画に対するアメリカの酷評の中に、先のアリストテレスのセリフを引用して、「こういう考え方は、最近の選挙で、11州で否認されたものではないか」とい うくだりがあったのでびっくりした。先の大統領選のときに、11州で同性婚に関する州民投票が同時に行われて、同性婚を禁止した州がそれだけあったことをさしているのだが、こういうバカげた反応が出てくるところが、いかにもいまのアメリカらしい。
日本でもアメリカでも、同性愛に拒否反応を示す人は、同性愛イコール同性の肉体関係(鶏姦関係)と思いこんでいるようだが、古代ギリシアの場合、そこは基本的にちがうのである。ギリシアでも、同性の間で肉体関係を強要されること(いわゆるオカマを掘られること)は、最大の恥辱とされていた。
「父王暗殺」の真実
この映画には、重要なサブ・ストーリーが幾つかあるが、その中ではこのことが重要なキーとなっている。具体的にいうと、それはアレキサンダーの父、フィリッポス 二世の暗殺について、誰がそれを企んだのか(アレキサンダーの母オリュンピアスはそれにからんでいたのか)という問題である。暗殺が起きてアレキサンダーが父の後を継いでマケドニアの王になったことそれ自体は、映画のかなりはじめのほうで、プトレマイオス(アレキサンダーの側近で、後のエジプト王)の語りの中で紹介されている。しかし、具体的な暗殺の場面それ自体は、ずっと後のほうになって、アレキサンダーの回想として出てくる。そして、全篇にわたって繰り返し問い返される謎が、アレキサンダーがその真相をどこまで知っていたのか、そして、それに(精神的に)荷担していたのかという問題である。
現実の問題としてフィリッポスを暗殺したのは、護衛官のパウサニアスである。パウサニアスが、なぜフィリッポスを殺したのかというと、実は男として耐えられない屈辱を受けるきっかけを作ったのが、フィリッポスだったからである。具体的にいうと、パウサニアスは、アッタロス(マケドニアの執権)の従者たちから、性的陵辱を受けるのだが、そうなるようにしむけたのが、フィリッポスだった。
そういうことは、映画で観客にはっきりそれとわかるようなストーリーとしては展開されていない。しかしこれは歴史上有名な話で、アリストテレスの『政治学』の中に、それが暗殺の原因だったとはっきり書かれている。
映画のはじめのほうで、フィリッポスが、アレキサンダーの母オリュンピアスを捨てて、新しい若い女エウリュディケと結婚する話が出てくる。アッタロスはエウリュディケの叔父だったから、この結婚によって王家の親族となり、一挙に有力者にのしあがっていく。その婚姻を祝う宴の場面で、アレキサンダーとアッタロスは大ゲンカをする。アッタロスが、「フィリッポスとエウリュディケ。正統な世継ぎの誕生を!」と乾杯の音頭をとると、アレキサンダーは、「無礼者! 私が正統な世継ぎだ」と叫び杯を投げつける。
エウリュディケに男の子が産まれたら、アレキサンダーは廃嫡されて、その男の子に王位が移ってしまうかもしれないのだ。そうならない前にフィリッポスを暗殺してしまえという考えが、オリュンピアスになかったか、アレキサンダーになかったか。これが全篇にわたる伏線である。
アレキサンダーとアッタロスが激しくののしり合うところに、父王フィリッポスが割って入る。
スクリーン中央でドラマの本筋がそのように進行していく中で、実は、先に述べたパウサニアス陵辱の場面が、祝宴の乱痴気騒ぎにまぎれてスクリーンの端のほうで同時進行的に進んでいく。多分、ほとんどの人が、画面中央のメイン・ドラマの進行に気を取られて、その場面を見落としてしまうにちがいないが、オリジナルの台本上、これは計算ずくでハッキリ盛りこまれた場面である。ちょっと注意をふり向けると、パウサニアスが、“Please! No!”“Don't!”とくり返し叫ぶうちに(スーパーは入らない)、従者たちに取りかこまれ、下着をまくり上げられ、丸出しにされた尻をパンパン叩かれ、やがて後ろからのしかかられ、パウサニアスが“Ow”と声をあげるさまが見えてくるヘずだ。
これがやがてフィリッポスの暗殺につながっていく重要な伏線であることに気がつく人はほとんどいないだろうが、歴史的な予備知識があると、そこがはっきり見えてくる。
驚くべき情報量
正直いって、私もはじめはそんなところまで気がまわらなかった。最初に見たときは、ペルシア軍を打ち破るガウガメラの戦いと、バビロン入城、ハーレムの美女たちの官能的な踊り、そしてインドでの象に乗った大軍団との衝突シーンなど、スペクタクルな画面にもっぱら目を奪われていた。オリバー・ストーンがこの映画にどのようなメッセージを託そうとしたのかという肝心なところが何も見えていなかった。そもそも、この映画が全体としてどのような構造をしているのかが見えていなかった。
オリバー・ストーンの映画ということで、ただのハリウッド映画ではなく、何か独特の重いメッセージがこめられているにちがいないと思ったものの、スペクタクルとしては、もうひとつもの足りなく、むしろ、期待が裏切られたような気がした。実は、この時点で読んだアメリカの酷評の幾つかには、その通りだと思える点が少なからずあって、共感すらしていた。
ちがう側面が見えてきたのは、もう一回見てからである。二回目は自分が見落としていたものがものすごく多いということに気がつき、かつ自分が歴史的背景を知らなすぎることを恥じて、いろいろ本を読んで、予備知識を蓄えた。その上で三回目を見た。それによってこの映画とリアルな歴史の距離感がわかり、さらに映画の全体構造が見えてきた。
二回目から三回目にかけて、やはりこの映画に興味をもって二回以上見た仲間とお互いの感想を語り合い、ビデオで問題の部分を小返し小返ししながら繰り返し見たことでわかったことも大きい。結局、私がこの映画が本当にわかったといえるようになったのは、三回半見てからである(半というのは、小返しの繰り返しということ)。
それくらい見ないとこの映画は訳がわからないほど難解だということではない。一回だって十分楽しめるし、それなりにわかったつもりにもなれる映画である。しかし、一回見ると必ずもう一回見たい気持ちにさせるだけのパワーを持った映画だし、かつ二回見ると、猛然と勉強がしたくなり、勉強した上でもう一回見たいという気持ちにさせるだけの深さがある映画である。そして三回目ではじめて発見できることが沢山ある。私の場合も先に述べた、フィリッポスの祝宴の陰のパウサニアスの陵辱場面が見えてきて、それとフィリッポスの暗殺の関係に気がつくのは、歴史的な知識を得た上で見た三回目なのである。
そこまで見えたとき、私はこの映画は本当にすごい映画だと思った。これは、画面のすみずみまで実に緻密に計算されつくされ、秒単位というより、秒以下の単位で(瞬間的フラッシュバックが多用されている)組み立てられた、画面構成のすべてが意味を持たされている、恐ろしいほどに情報量が多い映画なのである。
私がこの文章を書いているのは、そのようにして発見したこの映画の秘密をすべて語ろうということではない。そんなことをして、まだこの映画を見ていない人の、映画を初見するときの快楽を奪うつもりはない。
私がしようとしていることは、この映画を見る上で必要な若干の予備知識を与えることと、パウサニアスのエピソードに見られるように、この映画には一見しただけでは見逃すにちがいない、細部にいたるまで作りこまれた構造があるということを教えることだ。その大半は作品の中で絵解きされることなく、わかる人だけわかればよいという形で放り出されているから、この映画は見る人のレベルで見えてくるものがちがうということをいっておきたいのだ。もうひとついっておきたいのは、この映画には、全体を見たときにはじめて見えてくる構造があるということだ。
後者の大きな構造について述べておくと、この映画は多重構造になっていて、それぞれの構造が張りめぐらせる伏線が複雑に絡みあっている。そういう基本構造がわからないとこの映画はぜんぜんわからない。
ギリシア神話“悲劇の五人”
そのような基本構造で最も重要なものは、神話的構造(ギリシア悲劇的構造といってもよい)である。ここがおそらく日本人にはいちばん弱いところだろう。欧米では主なギリシア神話とギリシア悲劇が万人の常識になっていて、ちょっとした記号的表象が出てくるだけで、それがあらわす神話とその悲劇的性格を想起することができるが、日本人にはそれがほとんど期待できない。
冒頭に近いところで、父フィリッポスが少年アレキサンダーを連れて、洞窟に入り、そこに描かれた神話的壁画を次々に見せて親子の会話を交わす場面がある。壁画はどれもプリミティブなものだがそれだけに印象深く、少年の心に焼きつく。そのイメージが、映画の全篇にわたって(臨終の床にいたるまで)、瞬間的なフラッシュバックとなってアレキサンダーの心によみがえってくる。それによって、神話と悲劇がこの映画の根本構造になっていることがどう疑いようもなくわかる。従って、ここで紹介される五つの神話――トロイ戦争で英雄的な死をとげた「アキレス」。人間に火を与えてゼウスに罰された「プロメテウス」。実の父を殺し、実の母と姦通したことを知って我が目をえぐった「オイディプス」。夫イアソンが若い女に走ったことを知って、復讐のために我が子二人を殺した「王女メディア」。神によって狂気に陥れられ、我が子三人を殺してしまった「狂えるヘラクレス」――この五つについてだけは、各自予備知識を得ておいたほうがいい。
この映画はそれ自体が、この五つの悲劇を下敷きにした大きな悲劇になっている。アレキサンダーは同時にアキレスであり(本当に自分をアキレスの化身と思っていた)、プロメテウスであり、オイディプス(父親殺し)なのである。そして母オリュンピアスは、夫フィリッポスが若い娘に走ったことに怒って、子供を殺したメディアなのである。アレキサンダーは、メディアに殺された息子なのである(「憎しみと共に私を産み、ゆりかごの中で私を殺した」)。そして、狂って息子を殺すヘラクレスでもあった?(お腹に自分の子供をかかえる王妃ロクサネを殺そうとする)。
ギリシア悲劇では、基本的にその冒頭部分で、主人公の悲劇的運命が予告される。そして、それからどのように逃れようとしても、逃れられない運命として悲劇は進行していく。
この映画においても、アレキサンダーの運命は、洞窟の中で父に予告される。
「お前にもいつの日か、神々が残酷な裁きを下すだろう」
「プロメテウス」論
この映画は、全体がプトレマイオスの回想という作りになっている。プトレマイオスは、冒頭の長いムセイオン(学問研究所)における語りにおいて、アレキサンダーの生涯を総括する長めの語り(四分余)をする。そのあとも、随所で画面に重ねる形で、大きなシーンの転換部分でつなぎの語りをする(全部で17ヵ所)。そして最後にアレキサンダーの死んだあと再びムセイオンで長い総括の語り(五分余)をする。
つまり、この映画は全篇が、プトレマイオスの視点から見たアレキサンダーの生涯とその総括という作りになっている。そのプトレマイオスの視点として重要なのが、「アレキサンダーはプロメテウスだった」という視点である。それは冒頭の語りにおいてはっきり口にされるコメントだが、そのあと映画の幾つかの場面で(アレキサンダーが精神的に苦しむ場面)フラッシュバックされる、大ワシに肝臓を喰われるプロメテウスの壁画として示される。また、世界の屋根といわれるヒンズークシ山脈のてっぺんをきわめたときに、アレキサンダーと若きプトレマイオスが交わすプロメテウスをめぐる長い会話としても示される。
つまり、「アレキサンダーはプロメテウスだった」という視点は、この映画を理解する上で重要なキーなのだが、日本語版では、冒頭のプトレマイオスの語りから、この重要なセリフが抜け落ちている。
日本語のスーパーで、
「強者が世界を制する。彼は強者であるうえに良き友だった」
となっている部分の後半、オリジナルは、
「彼は人間の良き友、プロメテウスだった」
である。ここでプロメテウスを落としたら、最も大切なキーワードを落としたことになる。それにつづく、
「彼は世界を変えた。諸民族のうごめく世に、彼が現れすべてが可能となった」
もおかしい。ここは、アレキサンダーが来る前にそこにあったのは、未開の部族社会でしかなかったが、アレキサンダーが来てから、部族社会に文明開化が起きたので何でも可能になったということである。これが、「アレキサンダーはプロメテウスだった」の意味である。映画の中で後にその内容が具体的に示されていくが、それは、未開の部族の若者にも、ギリシア流の進んだ教育を与えることであり、ギリシア流の進んだ軍事訓練をほどこしてやることである。
プロメテウスは人類に火を与えたが故に、神から罰されたが、アレキサンダーは、未開の部族に教育と軍事訓練を与えたが故に、神から罰されたということである。実際にアレキサンダーを罰したのは誰かといえば、アレキサンダーの部下たるマケドニア人たちである。マケドニア人たちが、世界の果てまでいこうとするアレキサンダーについていくのに疲れ果て、命令に反逆するという形でそれはあらわれてくる。それに対して、アレキサンダーが、もうお前たちは来なくていい、あとは東洋人を従えて遠征をつづける(アレキサンダーの与えた教育と軍事訓練の成果で立派な軍隊ができていた)と宣言したとき、マケドニア人の怒りが爆発する(「おれたちはお払い箱なのか」)。そして、アレキサンダーを亡き者にしようと考えはじめる。
だから、アレキサンダーが臨終の床で、自分は部下たちに裏切られて死ぬのだと知ったとき、フラッシュバックで、大ワシに肝臓を喰いちぎられるプロメテウスの壁画を見るのである。
この「プロメテウスの死としてのアレキサンダーの死」という神話的な大構造が見えてこないと、この映画を見たことにはならない。
優れた「時代考証」人
私がここまで映画の構造が見えてきた背景には、先に述べたように、何度も映画を見たという以外に、英語の完全スクリプトを手に入れて、それを参照したことが大いに役立った。そしてアレキサンダー関係のさまざまな参考資料(前から個人的興味があって集めていた)を読んだことが大きい。
その中で、いちばん面白かったのは、ロビン・レイン・フォックスの『アレクサンドロス大王』(青土社)である。これは、上下合わせて1000ページを超える大冊なので、なかなか手を出せないでいたが、読みはじめたら面白くて一気に読んだ。73年に発行されたこの本は、今でもアレキサンダー伝でこれ以上のものはないといわれている本だ。レイン・フォックスは1946年生まれだから、まだ50代で健在である。健在どころか、この映画のクレジットをよく見たら、「ヒストリー・コンサルタント(時代考証)」として彼の名前が出ていたのでビックリした。それだけではなく、彼はこの映画に相当深くかかわったので、「メイキング・オブ」を本にしているという。早速、アマゾンで取り寄せたら、これが裏話満載で抜群に面白かった。これを読んで、この映画のできるまでがよくわかった。
オリバー・ストーンの「アレキサンダー」は、基本的に、レイン・フォックスの伝記を下敷きにして作られている。下敷きにしただけでなく、時代考証まで頼んだのは、もちろんオリバー・ストーンがレイン・フォックスを高く評価していたからである。
三大会戦をまとめて一つに
はじめの頃ストーンは、レイン・フォックスにシナリオを渡して、おかしなところを指摘してもらい、そこをどう変えればいいのかアイディアを出してもらうにとどめていた。しかし、レイン・フォックスにどんな質問をしても、的確な答えが返ってくるので、オリバー・ストーンの信頼がどんどん厚くなり、やがて、ストーンの依頼によって、台本のよくない部分をどんどん改稿するまでになった。オリバー・ストーンはレイン・フォックスの忠言をほとんど(全部ではない)受け入れ、この映画はすみずみまで、史実に近いものになっている。各場面における役者のひとつひとつのセリフですら、多くのものが、歴史的資料の裏付けがあるのはそのためだ。
とはいっても、全部が史実というわけではない。
もともと、アレキサンダーが成し遂げたことはあまりに大きく、映画一本の時間はあまりに短いから、相当に情報を圧縮しなければ、アレキサンダーの事績を映画一本に盛り込めない。そのため、たとえば、ペルシア軍とアレキサンダー軍の主たる対決は三回あった(グラニコス会戦、イッソス会戦、ガウガメラ会戦)が、映画では、その三回の会戦のエッセンスをとって、全部ひとつの会戦(ガウガメラ)に押しこんだ作りになっている。たとえば、アレキサンダーがペルシア兵にやられそうになったところを、クレイトスが一瞬早く救ってやるという重要なエピソード(後にアレキサンダーは酒席でクレイトスと大ゲンカになり、「あのときお前なんか助けなければよかった」というクレイトスを怒りのあまり刺殺してしまう)が生まれたのは、実際にはグラニコス会戦である。アレキサンダーが馬に乗ったままダレイオス3世のすぐそばまで攻め寄り、両者至近距離でにらみ合ったのは、実際はイッソス会戦である。また、アレキサンダーがとり残されたダレイオスの家族(母、妃、子供たち)に会い、彼らに礼をつくし、以後も王族として扱うことを約束するのは、やはりイッソスにおいてなのだが、このエピソードは、映画ではそっくりそのままバビロンの王宮の中で起きたことにされている。
マケドニア軍の分析
このように時間的前後関係の入れかえとか、起きた場所の変更などはあるが、映画で語られているエピソードは、基本的にすべて史実をふまえている。このあたりは、 これまでのハリウッドの歴史大作と全くちがう(たとえば、世評が高かった「グラディエーター」などは、歴史的には何から何までデタラメ)のである。
だから先のパウサニアスの陵辱シーンのように、一般の観客の注意がほとんど及ばないような細部にいたるまで、歴史に即した作りになっているのである。それだけ大変な仕事をしてくれたことに対して、オリバー・ストーンが、何かお礼をしたいのだがというと、レイン・フォックスは、映画に端役でいいからアレキサンダーと並んで出たいと希望した。レイン・フォックスが望んだのは、ガウガメラの戦いで、アレキサンダー配下の騎兵の一員として、ペルシア軍に突撃する役だった。そのお年で大丈夫かというと、レイン・フォックスは、自分は昔から乗馬を趣味として、毎年キツネ狩りなどもしており、しょっちゅう馬に乗っているから大丈夫だという。実際、ガウガメラのシーンで、やらせてみたら、立派に役をこなした。レイン・フォックスは撮影が終わって、オリバー・ストーンに、アレキサンダー大王の傍らで突撃するという、一生で最大の望みがかなえられたといって感謝した。
レイン・フォックスがあこがれていたアレキサンダー配下の騎兵の突撃こそ、アレキサンダーの強力な軍事力の中核にあるものだった。当時の戦争における騎兵は、20世紀初頭に登場した航空兵力と同じで、それまでの歩兵中心の戦争に、次元の違うパワーを持ちこみ、戦争の様相を一挙に変えた。いちはやくその重要性に気がついたフィリッポスは、テッサリアから大量の馬(三万頭といわれる)を購入して大きな騎兵軍団を作りあげ、これを徹底的に訓練して、地中海世界でいちばん強力な軍団とした。それでフィリッポスは連戦連勝し、たちまちギリシアの覇者となり、ついにはペルシア遠征まで企てた(アレキサンダーの遠征はこの計画を引きついだだけ)。
この軍団のメンバーは貴族の子弟からなり、彼らはヘタイロイ(騎兵仲間)と呼ばれ、いつも王と同じ食卓を囲む仲間とされた。同じ食事をとるだけでなく、王と対等の口をきくことが許され、軍略、政略なども、常に相談ずくで行った。つまり、軍の組織を専制的なものにせず、民主的なものにした。そこに生まれた緊密な上下関係がマケドニア軍の強さだった。
マケドニア軍のもうひとつの強力な軍事力の秘密は、サリッサと呼ばれる長槍(長さ5~6メートル)をかついだ重装歩兵集団(ファランクス)である。彼らはバラバラに行動せず徹底訓練で常に密集して一糸乱れず行動したから、その集団パワーは戦場において現代戦における戦車なみの威力を発揮したといわれる。その部隊長も貴族で、ヘタイロイといっしょに王の食卓に加わった。
映画の後半、アレキサンダーと軍の指導的メンバー(ヘタイロイたち)との間で、あつれきが増していく中で、父王フィリッポスを懐かしむ声がどんどん強くなる。昔は何でも対等に相談しあったのに、アレキサンダーは勝手に一人で決める専制的な王になったという不満の声が強くあがるのは、マケドニアの軍にこういう民主的な伝統があったからだ。その伝統がマケドニア軍の圧倒的な強さの基盤をなしていたことを知らないとアレキサンダーの悲劇の意味がわからない。クレイトスがアレキサンダーに刺殺される直前、「あなたはアジアを一人で制覇したつもりか」と問い、「以前はあなたと男同士堂々と話ができた」と嘆くのも、こういう伝統をさしている。
このあたりのやりとり、すべて史実に沿っている。そして、アレキサンダーが、酒の上で、怒りのあまりとはいえ、クレイトスを殺したときには、それを深く後悔し、三日間自室に閉じこもって自己嫌悪に苛まれつつ、嘆き悲しんだという。
この映画の前半は、アレキサンダーが強力な軍事力を背景に、輝かしい勝利をおさめ、栄光に包まれていくサクセスストーリーだが、後半は一転して、することなすこと裏目に出て、部下に対する統率力を失い、軍は解体し帝国も失うにいたる、失敗と破滅のストーリーである。
後半、アレキサンダーと軍の幹部たちとの衝突が激しくなっていくきっかけをなすさまざまのエピソードは、全部史実にもとづいている。
ニクソンや角栄との共通点
では、最後のアレキサンダーの死はどうだったのか。映画が示唆するように、毒殺だったのか。
歴史的には両説ある。
映画では、老プトレマイオスが、
「真実は我々が彼を殺した。無言のうちに皆同意していた」
と一度は告白しながら、あとからあわてて、
「今の部分は捨てろ。老人のたわごとだ。こう書け。“高熱と衰弱によって彼は死んだ”と」
と書記官に命令する。
だが、画面はどうかというと、宴席につらなっていた軍の幹部たちの顔をカメラが順になめていくと、その表情はまさしく、プトレマイオスがいう、
「無言のうちに皆同意していた」
という言葉を裏書きするものになっている。その全体を冷静にながめている若きプトレマイオスの姿が最後に映し出される。プトレマイオスの訂正前の言に従えば、これは、アガサ・クリスティの「オリエント急行殺人事件」のような、全員共謀の殺人事件だったわけだ。
別のいい方をするなら、この映画のテーマは「王殺し」であるともいえる。古来、共同体の利益に反する行動をするようになった王は、共同体が共同謀議の上で共同体の意思として殺すのである。その古代社会における事例は、フレーザーの『金枝篇』などに詳しいが、近くは74年に起きたアメリカのニクソン大統領に対する弾劾訴追などは(同年の日本の田中角栄の首相辞任も)典型的な「王殺し」といえるだろう。オリバー・ストーンがプトレマイオス役のアンソニー・ホプキンスを使って作った「ニクソン」(95年)は、「王殺し」のテーマの傑作映画である。「アレキサンダー」はそれにまっすぐつながるもうひとつの傑作「王殺し」映画なのだ。
本当に「王殺し」だったのか否か。真実は、歴史の闇に消えてわかるはずもないが、この最後の宴席の場面、オリバー・ストーンはアレキサンダーにライオンの頭の皮をかぶらせ、トロンとした異様な表情で演じさせた。ライオンの皮をかぶるのは古代ギリシアの図像学上、ヘラクレスの表現である。ここでアレキサンダーは、「狂えるヘラクレス」として描かれ、洞窟における父フィリッポスの予言、
「哀れなヘラクレス、偉大なヘラクレス、お前にもいつの日か、神々が残酷な裁きを下すだろう」
を成就させる形でその生涯の幕を閉じたわけだ。狂える王は、王殺しの対象とせざるをえないということがそこに含意されている。
現代アメリカとの比較
さて、最後まで見たところで私が何よりも感じたのは、オリバー・ストーンは、アレキサンダーの悲劇にアメリカの悲劇を重ねたなということである。
最初にこの映画を見たとき、ガウガメラの戦いを前に、アレキサンダーが将兵を鼓舞するシーンで、自分たちは自由の戦士であり、世界を専制大国のくびきから解放するために戦うのだと叫ぶと、兵士たちがウォーッと歓声をあげてそれに応えるところがあるが、それを見て、オヤ、これはアメリカのブッシュ大統領とネオコンそっくりではないかと思った。そして、質的に圧倒的に強い軍事力をもってペルシア軍をけちらすマケドニア軍を見て、これまたアメリカそっくりだと思った。
世界にギリシア文化を広げ、あちこちにアレクサンドリアを建設していけば、自由な「精神の帝国」として世界を再構築できるという夢を語るアレキサンダーを見て、これは、アメリカの圧倒的な国力を背景にその影響力を行使すれば、自由と民主主義が明日にでも世界に広がり、世界は平和になり豊かになり、やがて世界中の人が皆アメリカに感謝するようになるという夢を語る現代のナイーブなアメリカ人そのものだと思った。しかし、見かけ上善意でいっぱいの世界政策をおしすすめていくことで、そのようなアメリカの夢が実現に近づいたかというと、現実にはアメリカは世界から疎まれるばかりである。その姿が、アレキサンダーが夢を追って飛翔しようとすればするほど、マケドニア軍主流とあつれきを起こし、内部分裂を起こしてついにすべての夢が破綻していったのとよく似ていると思った。
「人種の融合? 調和? くだらん! 口ではそう言っていたが、結局彼がしたことは異民族の征服と支配だ。私は彼の夢を信じなかった。我々の誰一人…… これが彼の人生の真実だ」
このような苦い思いをもって、プトレマイオスはアレキサンダーの暗殺にいたった者たちの内的心理過程を語っている。いま世界中で広がっている反米感情はこれと同じなのではないか。ナイーブなアメリカ人が口にしてきたアメリカの理想、アメリカの善意を信じようとしても、
「結局、彼がしたことは、異民族の征服と支配だ」
としかいえないような現実を見せつけられては、
「我々の誰一人……」
アメリカの夢を信じられなくなるのである。
そういう危惧が、オリバー・ストーンにこの映画を作らせたのではないか。その延長線上に待っているのは、アメリカという帝国そのものを殺す「王殺し」ではないのかという危惧が。
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立花 隆さんの書く映画コラムがものすごく面白かったのでスクラップ。これを踏まえもう一度観てみようと思いました。
現在公開中の映画「アレキサンダー」より
↑2004年公開です。
172か178分の大作です。





